0地点とそれぞれの役割(わたくしごと)
昨日、ああ、ようやく0地点にきたなー
という感覚があった。
そこはとても穏やかで、先日お迎えしたばかりのラリマーのような場所だった。
そこからの見晴らしはとてもよくて
ああ、自由なんだなと思った。
もともと肩書きなんて息苦しいものであって
でも、周りに説明するために使っていたものだった。
だけど、自分のしていることは
何かピンポイントでなすことではなく
ピンポイントのセラピストとして存在するということではない
ということは皆さんのほうが気付いていると思うが。
感じたままに生み出すということ
それが自分だ。この時完全なる自分の幾何学模様を見た。
するとふとこんなワードが降りてきた。
『創造家』
あーそうそう。わたし創造家だ。
あー、忘れてた忘れてた。
水面に落ちる雨と
その美しい余波を見ながら。
その夜、旦那にその話をした。
わたし0になったよ。
創造家だよ。と
旦那も音楽を作ったり絵を書いている。
自分のことを『空想家』だと言っている。
で、そこで
旦那は面白いことを話し出した。
地球という水面があって
Michiは水滴なんだよ
ひと雫を落とし続けている
ゼロから生み出し続ける。
だから、間違いなく創造家だ。
俺はゼロでなく1だ
水滴が落ちてきてその余波を受け止めて
創作している。
たくさんのある素材をパズルのように組み立てていく
ゲームのような感じ
まさに空想家だよ。
だからさ、Michiは苦しいだろうね
そりゃ病気にもなるよ
だっていつだってゼロからなんだから
あ、俺は今
何かに言わされているね。
でもそれは誰にでもできることじゃない
素晴らしいことなんだよ。
わたしはハッとした。
そうだね。わたしたちの個性は雨とその余波そのものだった。
そして、わたしのことを理解してくれている人が目の前にいるんなんて
奇跡だと思った。
そして意外かもしれないが、自分の中で
余波を楽しむ組に憧れている自分がいたことに気付いた。
それは過去の出来事に繋がっていた。
わたしは子供の頃から
感覚でしか生きておらず
みんなと同じことができなかった
両親は何度も『お願いだから普通にしていて』と言った。
両親や学校はわたしに余波になれと言った。
だけどできなかったし、しなかったけど。
きっとマインドの中で
余波こそが正解だと擦り込まれてしまっていたのだ。
正解という美しい余波
雨の日、水面に映るのは
雫でなく余波の美しい輪だから
目に見える喜びを手にできる人たちだから。
地球に絵を書くように存在している。
それは素晴らしいことだ。
でもそれは
ひとしずくがあってこそなのだと
旦那はたくさん力説してくれた。
どちらが正解ということではなく
どちらも美しいのだ。
お互いの役割、視点を確認できた。
旦那はわたしを羨ましいと思い
わたしは旦那が羨ましかった
それは自分の個性を知るサインだったのだ。
それぞれに美しく
役割があるのだ。
その役割に抗うことなく
ただ、自分であり続ければいい。
そういえば、5年くらい前だろうか
この絵本で魂が震えたんだった。
しずくの役割
その時はなぜこんなに魂が震えてるのか
わからなかった
読んだ友達はまるでピンときていなかった。
だけどわたしは泣いた。
しずくと自分の生き方と
そこを見る人はほとんどいない孤独と
だけど見てくれている人がいるんだという喜びと
それを美しいと言ってれる人が
横にいる奇跡
そんな未来と
この本を読んだ時、繋がったんだ
だから
泣いたんだ。あの日。
ありがとう
わたしという、しずくに気付き
それを受け入れ
その余波を楽しんで愛してくれる人たち
愛する旦那、友達、家族
micotoに来てくれる人たち
micotoの石やメッセージを受け取ってくれる人たち
ありがとう
わたくし
これからも
四方八方に
しずくを飛ばしまくります。
わたしの中に宿ったもの
言葉、歌、メッセージ
ジャンルもなく分ける必要もない
それはわたしという惑星が宿したものだから。
ただ生み出していく。
それは
創造だと思うの。
だから
創造家です。
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